集団的自衛権、日本国憲法第9条

フランクリン・ルーズベルトは、1943年のカイロ会談で、蔣介石に尖閣諸島を含む沖縄の領有を提案しました。蔣介石が断ったので実現しませんでしたが、中共が尖閣領有権を主張する根拠の一部にされてしまいました。さらにルーズベルトは、1945年のヤルタ会談では、ソ連の対日参戦を誘うために、千島列島はソ連が取ったらよいと発言しました。現在でも米国が北方四島に対して何のコメントも発しない理由です。

こんなことを言った米国が、果たして日本の領土を守るために本当に米国として集団的自衛権を行使するのでしょうか。アメリカの若者が日本という他国のために命をかけて本当に戦ってくれるのでしょうか。勿論固く結ばれているといわれる日米安全保障条約があります。そして国際条約は相互主義が原則ですから、アメリカの危機に対して日本は知らん顔していいのかということになります。

お互いに助け合わずしてアメリカ側だけが日本を助けてくれるという事で良いのかという問題が一つにあるのです。思いやり予算といい日本は駐留米軍経費の一部である数百億円を負担しています。しかし湾岸戦争のときに国連により各国が参加する中、日本は憲法の制約により約3兆円という莫大な戦費を供出し貢献したにもかかわらず、顔が見えない・血を流さないと全く評価されませんでした。

金銭だけで戦わず高見の見物しているのかということでしたが、先の大戦で国連つまり日本に勝利した連合国は、敗戦国の日本がお金を出すのは当然、さらにせっかくの自衛隊があるのだから出せよと、とどこまでも日本を支配下においているようなものです。

これでは意味が無いと、この湾岸戦争を機に自衛隊の海外派遣が実施されることになりましたが、そのたびに問題となるのが日本国憲法第9条です。何とか派遣するべく、内閣法制局にとどまらず、国会そして有識者によるこじつけに近い解釈を生み出し、左翼からは拡大解釈と批判されながらも自衛隊による海外派遣貢献が始まり今日に至っています。

憲法改正、さらには新憲法制定の議論の中心は第9条です。左翼勢力は現憲法が「平和憲法」といい改正・新憲法制定に反対します。改正なりで日本が戦争をできる国になると主張します。しかしこれだけの議論になるのですから第9条はまさしく中途半端だと言えます。さらに改正等のハードルが高いということであれば解釈により運用していくしかないのです。

日本国憲法第9条は、日本の国際貢献という大きな意義もありますが、日本の国力の誇示という仮想敵国への抑止力の足枷にもなっています。

以前の自民党政権時には目立ちはしませんでしたが、安倍政権が政策として掲げた「集団的自衛権」は、日本にとってどのような意味を持ち、どのようなメリットがあるのでしょうか。

まずは以下に述べることをしっかりと認識していただきたいと思います。集団的自衛権も交戦権も、外交上は自国の利益になる時に使える「自然権」であって、メリットしかありません。メリットしかないのですから両権利とも明確に使えることにしないと宝の持ち腐れということになりかねません。むしろ使えないと敵国に一方的にやられてしまうということになります。

「自然権」とは、生きていれば誰にでも空気を吸う権利があるというように、どこの誰にでも自然に与えられた権利のことです。

内閣法制局ですら、集団的自衛権は国家の自然権だとすることをずっと求めてきていました。内閣法制局は名前の通り内閣府の一局で、内閣が所管する機関です。内閣が行う政策の法律判断をする官庁で、法務省の一機関ではありません。安倍政権で初めて集団的自衛権を容認する長官が任命されました。

集団的自衛権は憲法第9条の解釈上認められないと、これまでの内閣法制局が言っていただけなのです。最高裁判所が「集団的自衛権」について判断したことはありません。仮に、内閣法制局により集団的自衛権の行使可能の解釈がなされ、左翼か誰かに憲法違反の可能性ありと最高裁に提訴されても、9分9厘最高裁は集団的自衛権を「国の統治行為」だとして判断するには至りません。

私には憲法第9条の条文をどのように解釈しても集団的自衛権が認められない理由がわかりません。つまり解釈を変更しさえすれば、メリットしかない集団的自衛権を行使できるということになります。

国連憲章51条は、「国連加盟国は(自分たちに対する)武力攻撃が発生した場合、個別的・集団的自衛権を有する」と明示しています。

第二次世界大戦で敗戦した日本とアメリカなど連合国とが1951年に締結したサンフランシスコ講和条約にも、「日本は主権国家として国連憲章51条に言及された個別的・集団的自衛権を有する」と規定されています。

国際法上、一般的に言うと「個別的自衛権」とは、自国に対する武力攻撃に実力をもって阻止する権利をいい、「集団的自衛権」とは、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利をいうと解されています。 
 日本が国際法上「集団的自衛権」を有していることは、主権国家である以上当然のことなのです。

しかし憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであつて、憲法上許されないと解釈されてきたのです。
 日本は、自衛権の行使に当たっては我が国を防衛するため必要最小限度の実力を行使することを旨としているのですから、集団的自衛権の行使が憲法上許されないからといって不利益が生じるということではありません。

確認の為に「個別的自衛権」をさらに詳しく具体的に説明すると、日本が攻撃を加えられた場合に自衛のために武力を行使する権利のことを言います。そして条件というか要件として次のように解釈し定義されています。

・我が国に対する急迫不正の侵害があること

・これを排除するために他の適当な手段がないこと

・必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと

であり、個人における正当防衛の解釈と同様といえます。

そして「集団的自衛権」の行使とは、同盟国であるアメリカが攻撃を受けた際に、日本が攻撃されていなくともアメリカを守るべく武力を行使することである、とされています。

話が少しそれますが、南朝鮮の愚かさを象徴しているので説明すると、数年前に米国ワシントンを訪問中だった南朝鮮政府高官が、「(日本の集団的自衛権が) 韓半島と南朝鮮の主権に関連する場合は、我が国政府の同意が必須だ」として、南朝鮮とはまったく関係ない日本の自衛権に対する追求方針を公式化発言していました。この過程で「日本の軍国主義回帰」「自衛隊の韓半島進出」といった多少刺激的な仮定が提起されたため、日本の右傾化様相に敏感な国内感情を意識してしまったと思われます。

さらに砕いて言うと、この南朝鮮の政府高官は朝鮮半島有事の際、アメリカと共に日本の自衛隊も参戦してくるものと勝手な解釈をしたのです。もっとも誤解もさもありなん、と思います。半島有事の際日本のアメリカに対する「集団的自衛権」は南朝鮮に加勢するものではなく、米軍が攻撃された場合に日本の武力行使の要件を満たせば米軍を守るためにだけに日本が武力行使をするということなのです。

感情論ではなく、南朝鮮が北朝鮮に攻撃されても日本の集団的自衛権の行使には当たらず、日本が南朝鮮を援護することは日本国憲法第9条に抵触してしまいます。日本が南朝鮮を助けることは憲法違反になるので有り得ません。そして米軍が日本にある基地から南朝鮮のために出撃することもできません。

日本と軍事的緊張関係にある中共ですら、日本の集団的自衛権に「反対」という表現を使っていません。一般的に認められている国際規範により、日本の集団自衛権追求に対して国家レベルで反対の立場を表明することなどできないのです。

本来「集団的自衛権」は同盟国が攻撃されるか、同盟国ではなくとも自国の安全保障上不可欠な国の求めに応じて共同軍事行動を取るものです。例えば米国領であるグアムやハワイが攻撃され、自衛隊が米軍を支援するなら集団的自衛権の行使と言えます。

しかし米国が本国の自衛の目的ではなく、国連安全保障理事会決議もなしに行ったイラク攻撃やユーゴ爆撃、あるいは中共台湾関係に将来介入するような場合、日本が参加するのは集団的自衛権とは言えません。朝鮮半島にも同じことが言えます。

もし中共・北朝鮮なりがアメリカに向けて大陸間弾道ミサイルを発射した場合、途中で日本が打ち落とす、これこそ集団的自衛権の行使です。それが現在の解釈では出来ないのです。友達がやられているのに止めも加勢もしないのは人道的にも許されないと思います。

日本国憲法第9条の条文を素直に読むと、自国を守るための個別的自衛権まで放棄しているようにも見えますが、それでは黙ってただ攻撃されてしまい、日本国がなくなるだけです。政府の解釈では、自衛のための実力行使まで放棄していないとされています。

ただ、この憲法9条の制約により、集団的自衛権は行使できないと解釈されているのです。つまり集団的自衛権については「国際法上保有しているが、行使はできない」というのがこれまでの日本政府が積み上げてきた解釈なのです。

 それではどうしてそのようなことが起きたのでしょうか。全ては憲法第9条の条文に曖昧さがあるからです。逆に厳密に規定してしまうともしかすると憲法に縛られ身動きがとれなくなるので、時代にあった解釈で判断していけばよいということが憲法の精神ではないかと思います。

 憲法9条の解釈により運用していく、これが日本の知恵だと思います。敗戦により米国に押し付けられた憲法、日本に二度とあの強い軍隊を持たせず、永久にあの日本恐怖を味わいたくない、そんなアメリカの思惑が錯綜する憲法第9条なのです。

 そして憲法第9条を解釈により運用していくということはとても便利であるとも思います。改正や新憲法制定の困難さを解決してくれます。解釈の積み重ねが改正や新憲法制定と同じ効果、いやむしろそれ以上にもなると思います。

 自民党の2005年8月1日に公表された新憲法草案では、直接に集団的自衛権に言及していませんが「自衛権の中に含まれる」と説明しています。このようにやはり中途半端というか現憲法に対するものと同様に、解釈での運用に頼らざるを得ないのは、「平和憲法」という米国だか左翼の勝手なネーミングが解釈等の邪魔をしていると思います。

 「平和憲法」という呼び方を誰が決めたのか、この言葉が日本と日本国民そして日本国憲法にとって、確かにに聞こえは良いですが、全く安全が確保されているということには繋がらないのです。この「平和憲法」という言葉に騙され呪縛されています。

 憲法は平和を守るものであり、憲法そのものだけが平和ではその国家はどこからも侵略など無いと決めているようなものです。憲法が平和を守るためならきちんとその手段まで明記をしないと、政府による解釈でしか運用できなくなるのです。

 「平和憲法」と名づける戦略に、日本と日本国民が平和なのではと錯覚させられ平和ボケに仕向けられているのです。日本を取り巻く周辺国との関係は少しも平和とはいえないことは理解できると思います。

 憲法第9条の2項に「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とあります。それでは自衛隊はどうなんだということになります。これこそ政府の解釈として、国としての正当防衛があり、あらかじめ予想される攻撃の範囲内で準備することは認められている、つまり必要最低限のものであり、軍隊ではないので自衛隊だ、という解釈をしています。そして自衛隊の装備も必要最低限の範囲内ということになります。

「国の交戦権は、これを認めない」ともあります。しかし「前項の目的を達するため」とあり、国の正当防衛による武力行使は「前項の目的を」達する為ではないという解釈なのです。

自衛隊は英文標記だとARMYであり軍隊です。憲法が委任する自衛隊法でも軍隊です。軍隊だから海外派遣できない、自衛隊だから平和貢献できる、しかし軍隊ではないから武器の使用は出来ない、戦闘地域に行きやられれば防ぐことになり交戦権の可能性あり派遣させられない、こんな状況も全て解釈により当たらないとして今日に至っています。

解釈というのは便利なものです。自衛隊には世界でも最新鋭の装備がいくらでもありますが、正当防衛における解釈上は最小限度になります。こうした解釈を広げ続けていけば、既に周辺国が持つ核兵器ですら最小限度の解釈になり保有することが出来ます。

自衛隊ですら海外派遣の貢献のために、世界は認めているのだからそして自衛隊員の士気からも国防軍と呼称しても解釈により憲法違反にならないとなります。

私はなまじハードルの高い憲法改正・新憲法制定を待つより、世論の後押しが欠かせませんが、解釈によって運用していくことが即応でき現状ではベストの選択ではないかと思います。

故安倍総理は、防衛庁から防衛省に格上げをしました。そして「集団的自衛権」を解釈により行使できるよう政策を掲げました。いきなりの現状からかけ離れた憲法解釈は許されませんが、徐々に解釈を変更していくことは時代に即応することであり許されると思います。

自国の安全は自国で守る、極めて当然のことです。これこそがもしかすると本意ではない日米同盟ではなく、対等な日米関係に繋がります。

憲法第9条における「集団的自衛権」の解釈変更は、まさしく自国で自国を守る、その第一歩なのです。自国を自力で守れずして本来の日本は取り戻すことは出来ません。

戦後の自民党政権、初めて真正保守といえる故安倍政権により国の安全保障が議論され始めました。

憲法解釈の変更という第一歩が、自力での軍隊になり自前で自国を守れ、真の独立国となり、日本ならではの世界平和に貢献できることになります。

 左翼の言う「平和憲法」という言葉に迷わされず、日本はいまだ平和とはいえないことを認識し、国民の力を結集し日本を守っていかなければなりません。

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