日本の文化」カテゴリーアーカイブ

皇室の文化

講書始 講書始の儀(宮殿 松の間) 講書始の儀は,毎年1月,皇居において,天皇陛下が皇后陛下とご一緒に,人文科学・社会科学・自然科学の分野における学問の権威者から説明をお聴きになる儀式です。皇太子殿下をはじめ皇族方が列席され,文部科学大臣,日本学士院会員,日本芸術院会員などが陪聴します。 講書始の儀は,明治2年,明治天皇が学問奨励のためにお定めになった「御講釈始」がそのはじまりとされています。当時は国書,漢書についてのご進講が行われ,その後,洋書も加わるようになり,昭和28年からは,現在のように3つの分野から行われるようになりました。

歌会始 天皇がお催しになる歌会を「歌御会」といいます。宮中では年中行事としての歌会などのほかに,毎月の月次歌会が催されるようにもなりました。これらの中で天皇が年の始めの歌会としてお催しになる歌御会を「歌御会始」といいました。 歌 御会始の起源は,必ずしも明らかではありません。鎌倉時代中期,亀山天皇の文永4年(1267年)1月15日に宮中で歌御会が行われており,『外記日記』 はこれを「内裏御会始」と明記しています。以後,年の始めの歌御会として位置づけられた歌会の記録が断続的に見受けられます。このことから,歌御会始の起 源は,遅くともこの時代,鎌倉時代中期まで遡ることができるものといえます。

雅楽 日 本には上代から神楽歌・大和歌・久米歌などがあり,これに伴う簡素な舞もありましたが,5世紀頃から古代アジア大陸諸国の音楽と舞が仏教文化の渡来と前後 して中国や朝鮮半島から日本に伝わってきました。雅楽は,これらが融合してできた芸術で,ほぼ10世紀に完成し,皇室の保護の下に伝承されて来たもので す。その和声と音組織は,高度な芸術的構成をなし,現代音楽の創造・進展に対して直接間接に寄与するばかりでなく,雅楽それ自体としても世界的芸術として 発展する要素を多く含んでいます。

蹴鞠 蹴鞠(けまり)は,約1,400年前の大和朝廷時代に,中国から我が国に伝えられたといわれる球戯の一種です。勝敗はありません。我が国では,時代によって宮中において盛んに鞠会が催され,平安時代中頃以降の古文書には,鞠会の記述がしばしば見られます。

古式馬術(打毬・母衣引) 打 毬は,中央アジアの一角に発したといわれ,西に流れたものがヨーロッパに伝えられて「ポロ」となり,一方,東に流れたものが中国で打毬となり,やがて朝鮮 半島を経て8~9世紀頃我が国に伝わったようです。その後,奈良・平安時代には,端午の節会の際に行われる宮中の年中行事となりました。鎌倉時代以降は衰 微していましたが,江戸時代に至り,八代将軍吉宗が騎戦を練習する武技としてこれを推奨したため,新しい競技方法も編み出され,諸藩においても盛んに行わ れるようになりました。明治以降,日本古来の馬術は実用に適した西洋馬術に圧倒され,打毬もまた洋鞍を用いる現代式打毬に転化されましたが,宮内庁主馬班 には,現在,江戸時代(中期頃)最盛期における様式の打毬が保存されています。 母衣引は、平安時代から室町時代にかけての記録では,母 衣,保侶,母廬等の語が見られ,語源上単一ではなく,また,その形状や使用方法も必ずしも明確ではありませんが,当時,「ほろ」は戦場で矢を防ぐための武 具あるいは戦袍として用いられたものであろうといわれています。やがて,戦いのなくなった江戸時代(中期)に移ると,様式美を伝える馬術として母衣を引く ことが行われ,諸大名の馬の催しの際に供覧されるようになりました。現在,宮内庁主馬班が伝承している母衣引は,この時代のものです。

鴨場 現在,宮内庁が管理している鴨場は,埼玉県越谷市の「埼玉鴨場」と千葉県市川市の「新浜鴨場」の2か所があり,両鴨場のそれぞれ約13,000平方メートルの元溜(もとだまり)と呼ばれる池には,毎年1万羽を超える野鴨などの渡り鳥が越冬のため飛来しています。 鴨場は,鴨の狩猟期間(11月中旬から翌年2月中旬)に,天皇陛下の思召しにより内外の賓客の接遇の場として使用されています。

御料鵜飼 岐 阜県の長良川では,毎年5月中旬から10月中旬の間,1300年来我が国の古代漁法として伝承されてきた鵜飼漁が御料鵜飼として皇室の保護のもとに行われ ています。皇室と鵜飼の歴史は古く,律令時代には鵜飼人(鵜匠)が宮廷直属の官吏として漁をしていた記録があります。その後,各地の鵜飼は諸大名の保護の もとで続けられますが,長良川の鵜飼は,尾張徳川家の保護を受けて続けられてきました。しかし,明治維新とともに保護も無くなり,古代漁法として伝承され てきた鵜飼漁法は消滅の危機に瀕しました。そうした中,明治23年,時の岐阜県知事の要請を受けて,宮内省は鵜匠に職員の身分を与えるとともに,長良川に 3か所の御料場を設置し,引き続き,御料鵜飼として鵜飼漁が行われるようになりました。現在,御料鵜飼は,古津地区及び立花地区の両地区において宮内庁式 部職鵜匠により,毎年8回ずつ行われており,このうち古津地区の2回は,駐日外国大使夫妻等を招待し,日本の伝統文化である鵜飼漁を紹介しています。

書陵部所蔵資料 書陵部で所蔵している歴史的資料は45万点以上に達します。これらを大きく分けると3つに分けられます。 代々皇室に伝わってきたものを中核とする古典籍・古文書類 歴史的資料として保存されている明治以降の宮内省・宮内府・宮内庁の公文書 宮内庁が管理している陵墓等から出土した考古品

三の丸尚蔵館 三の丸尚蔵館は,皇室に代々受け継がれた絵画・書・工芸品などの美術品類に加え,故秩父宮妃のご遺贈品,香淳皇后のご遺品,故高松宮妃のご遺贈品が加わり,現在約9,500点の美術品類を収蔵しています。

・正倉院宝物 歴代天皇の御陵と資料にリンクしています。(宮内庁ホームページより)


皇室に関しては、あのアインシュタイン博士もここまで評価しています。 これは1922年11月16日に初来日して40日間日本に滞在したアインシュタイン博士が伊勢神宮参拝の際の講演時に残したメッセージといわれています。 「近 代の日本ほど、世界を驚かしたものはない。この驚異的な発展には、他の国と異なる何かがなくてはならない。日本は3000年の歴史を通して一系の天皇を戴 いてこれたということが、今日の日本をあらしめたと断言できる。私はこのような尊い国が世界のどこかに一カ所くらいなくてはならないと常々考えていた。世 界の未来は進むだけ進み、その間、幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れるときがやってくる。その時、人類は本当の平和を求めて世界的な盟主をあげ なければならない。この世界の盟主になるものは、武力や財力ではなく、あらゆる国の歴史を遥かに越えた、最も古く、最も尊い家柄でなくてはならぬ。世界の 文化はアジアに始まってアジアに帰る。それはアジアの高峰、日本に立ち戻らなくてはならない。我々は神に感謝する。我々に日本という尊い国を作っておいて くれたことを……」(大正12年 雑誌『改造』より)


右京雄一研究室 2671.11.3 宮内庁ホームページ、書稜部資料より引用あり

天皇陛下のご公務

新年祝賀の儀
毎年1月1日,皇居において,天皇陛下が皇后陛下とご一緒に,皇太子殿下をはじめ皇族方,衆・参 両院の議長・副議長・議員,内閣総理大臣,国務大臣,最高裁判所長官・判事,その他の認証官,各省庁の事務次官など立法・行政・司法各機関の要人,都道府 県の知事・議会議長,各国の外交使節団の長とそれぞれの配偶者から,新年の祝賀をお受けになる儀式です。国事行為たる儀式とされています。

新年一般参賀
毎 年1月2日,皇居において,天皇皇后両陛下が国民から祝賀をお受けになる行事です。天皇皇后両陛下が皇族方とご一緒に,随時宮殿のベランダにお出ましにな り,直接国民から祝賀をお受けになっています。その際,天皇陛下のお言葉があります。参賀者は皇居正門から入門して宮殿東庭で祝賀の上,退出します。

天皇誕生日祝賀・一般参賀
毎年12月23日の天皇陛下のお誕生日をお祝いして,次の行事が行われています。

祝賀の儀
天皇陛下が,皇太子殿下はじめ皇族方,内閣総理大臣,衆・参両院の議長,最高裁判所長官から祝賀をお受けになる儀式です。

宴会の儀
天 皇陛下が皇后陛下とご一緒に,衆・参両院の議長・副議長・議員,内閣総理大臣,国務大臣,最高裁判所長官・判事,その他の認証官,各省庁の事務次官など立 法・行政・司法各機関の要人,都道府県の知事,各界代表者とそれぞれの配偶者を招いて宴会を催され,祝賀をお受けになる行事で,皇太子殿下をはじめ皇族方 も列席されます。

茶会の儀
天皇陛下が皇后陛下とご一緒に,各国の外交使節団の長とその配偶者を招いて茶会を催され,祝賀をお受けになる行事で,皇太子殿下をはじめ皇族方も列席されます。

一般参賀
天 皇陛下が,国民から祝賀をお受けになる行事です。午前は,天皇皇后両陛下が皇族方とご一緒に,随時宮殿のベランダにお出ましになり,直接国民の祝賀をお受 けになっています。その際,天皇陛下のお言葉があります。参賀者は皇居正門から入門して宮殿東庭で祝賀の上,退出します。午後は,宮殿において祝賀行事が 行われるため,天皇皇后両陛下と皇族方のお出ましはなく,参賀者は坂下門から入門して,宮内庁庁舎前で記帳するか,名刺を提出の上,退出します。

親任式
天 皇陛下が内閣総理大臣(国会の指名)と最高裁判所長官(内閣の指名)を任命される儀式です。内閣総理大臣の場合は,衆・参両院の議長が侍立し,天皇陛下か ら任命する旨のお言葉があった後,前内閣総理大臣から官記(任命書)が伝達されます。最高裁判所長官の場合は,天皇陛下から任命する旨のお言葉があった 後,内閣総理大臣から官記(任命書)が伝達されます。

認証官任命式

任免につき天皇の認証を必要とする国務大臣その他の官吏(認証官といいます)の任命式です。任官者は,内閣総理大臣から辞令書を受け,その際,天皇陛下からお言葉があるのが例です。なお,次の官職が認証官です。
国務大臣,副大臣,内閣官房副長官,人事官,検査官,公正取引委員会委員長,宮内庁長官,侍従長,特命全権大使,特命全権公使,最高裁判所判事,高等裁判所長官,検事総長,次長検事,検事長
年間平均すると約30件あります。

勲章親授式
大綬章等勲章親授式
大綬章等の勲章の親授式で,春季と秋季,皇居において行われます。天皇陛下から受章者に勲章が授与され,引き続き内閣総理大臣から受章者に勲記が伝達されます。
文化勲章親授式
文化勲章の親授式で,11月3日,皇居において行われます。天皇陛下から受章者に文化勲章が授与され,引き続き内閣総理大臣から受章者に勲記が伝達されます。

信任状捧呈式
新任の外国の特命全権大使が信任状を天皇陛下に捧呈する儀式です。外務大臣または他の国務大臣が侍立することとされています。なお,大使一行の皇居への送迎に際しては,大使の希望により,皇室用の自動車か馬車が提供されています。年間平均約35件あります。

ご会見・ご引見など

ご会見
天皇陛下が皇后陛下とご一緒に,来日された外国の元首・夫人などの賓客とお会いになることをご会見といい,両陛下はこれらの賓客と親しくお話し合いになります

ご引見
天皇陛下が皇后陛下とご一緒に,外国の首相や大使,その夫人などの賓客とお会いになることをご引見といい,両陛下はこれらの賓客と親しくお話し合いになります。皇太子同妃両殿下をはじめ皇族方も外国の賓客と親しくお会いになっています。あわせて年間約140件あります。

拝謁・お茶・ご会釈など

天皇皇后両陛下にお会いすることを拝謁といいますが,社会福祉・医療・教育・文化・学術・産業など各分野で功績があった人が主としてその対象となります。

両陛下は,文化勲章受章者・文化功労者・日本学士院賞受賞者・日本芸術院賞受賞者,駐日の外交団,赴任・帰朝大使夫妻など内外の要人をお招きになって,お茶や昼食会などを催されています。
そ のほか,内閣総理大臣や国務大臣が天皇陛下に所管事項などをご説明する内奏や,専門事項などを両陛下にご説明するご進講や皇居内の清掃奉仕のため全国各地 から集まる人々とお会いになるご会釈などがあります。両陛下はこれらの機会を通じて多くの人々と親しく接しておられます。

皇太子同妃両殿下はじめ皇族方も,天皇皇后両陛下とご一緒に,あるいはご単独で,国内・国外の多くの人々とお会いになっています。さらに天皇皇后両陛下 ご会釈 勤労奉仕団(平成22年中:224団体,7,033人)があります。

午餐・晩餐
天 皇皇后両陛下は,国賓・公賓・公式実務訪問賓客など外国からの賓客の来日に際し,宮殿や御所において,昼食会や夕食会を催されています。国内の要人等をお 招きになって昼食会などを催されることもあります。皇太子同妃両殿下はじめ皇族方も,天皇皇后両陛下とご一緒されたり,あるいはご単独で昼食会や夕食会を 催されています。

園遊会
毎年,春と秋の2回,赤坂御苑で催されます。天皇皇后両陛下は,衆・ 参両院の議長・副議長・議員,内閣総理大臣,国務大臣,最高裁判所長官・判事,その他の認証官など立法・行政・司法各機関の要人,都道府県の知事・議会議 長,市町村の長・議会議長,各界功績者とそれぞれの配偶者約2,000人をお招きになって,親しくお話しになっています。

皇太子同妃両殿下はじめ皇族方が出席されるほか,春の園遊会には,各国の外交使節団の長以下の外交官・各国の領事館の長とその配偶者・令嬢も招待されます。なお,各界功績者は,産業・文化・芸術・社会事業などの分野で功労のあった人です。

宮中祭祀 別項に詳細
天皇皇后両陛下は,宮中の祭祀を大切に受け継がれ,常に国民の幸せを祈っておられ,年間約20件近くの祭儀が行われています。皇太子同妃両殿下をはじめ皇族方も宮中祭祀を大切になさっています。

宮中三殿
皇居の中の、賢所、皇霊殿、神殿の総称

賢所
皇祖天照大御神がまつられています。

皇霊殿
歴代天皇・皇族の御霊がまつられており,崩御・薨去の1年後に合祀されます

神殿
国中の神々がまつられています。
三殿に附属して構内に,神嘉殿(しんかでん)・神楽舎(かぐらしゃ)・綾綺殿(りょうきでん)・奏楽舎(そうがくしゃ)・幄舎(あくしゃ)等の建物があります。

祭典
天皇陛下ご自身で祭典を行われ,御告文(おつげぶみ)を奏上されます。

大祭、小祭
掌典長が祭典を行い,天皇陛下がご拝礼になります。

旬祭(しゅんさい)
毎月1日・11日・21日に掌典長が祭典を行い,原則として1日には天皇陛下のご拝礼があります。

ご署名捺印
閣議決定 年間約1000件
宮内庁関係  年間約1500件
海外条約・協定・覚書等  年間約600件
今上陛下は、全てに目を通され「明仁」と署名されご捺印されます。


右京雄一研究室
2671.11.28

和菓子(2012/04/09)

和菓子とは日本の伝統的な製造方法で作られた菓子のことを指します、和菓子はその美味しさだけではなく菓子で四季を表したり日本の美を表したりなどとても芸術性の高い菓子です。バターや生クリームなど動物性の原料を使用する洋菓子とは異なり、和菓子は小麦や白玉粉、砂糖、水飴、わらび粉などを使用し動物性の原料は鶏卵以外はほとんど使用しないそうです。一般的には菓子の水分量が10%以下の菓子を干菓子・乾菓子(ひがし)に分類されます、水分量が30%以上は生菓子になります干菓子と生菓子の間、10~30%の水分量の菓子が半生菓子です。

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━━━和菓子の歴史
日本における一番古い菓子と言えば縄文時代に食べられていた天然の果実や木の実でドングリや栗、トチの実、クルミなどで「果子」あったと考えられています、その後に菓子の神様と呼ばれている「田道間守命」(たじまもりのみこと)が垂仁天皇陛下の命を受けて常世の国(海の彼方、遥か遠い国)に不老不死の妙薬と呼ばれていた「非時香果」(ときじくのかぐのこのみ)を求めて旅に出て枝と実を持ち帰りました、しかし垂仁天皇陛下はすでに崩御されており悲しみ嘆いた田道間守は橘を御陵に捧げ息絶えたと日本書記に記述があります。非時香果とは、いつも芳香を漂わせる木の実と言う事から柑橘系の橘(たちばな)や橙(だいだい)であるとも言われておりこの非時香果が「和菓子」のルーツとされています。田道間守命は現在、菓祖、菓子の神様として兵庫県豊岡市にある中嶋神社に祀られています。

━━━奈良時代から平安時代
奈良時代から平安時代になると遣唐使によって唐から「唐菓子」と呼ばれる小麦などを捏ねたり、油で揚げる等の技法が伝わり神社や寺院のお供え物としてや貴族に好まれました、平安時代に書かれた「和名類聚抄」に主として八種唐菓子(梅枝、桂心、団喜、黏臍、渇餬、鎚子、桃枝、食畢)と呼ばれる様々な菓子が記されています。八種唐菓子の一部は煎餅などで今でも形を変え残されているそうです。それまで橘や橙等の果物を菓子と呼んでいましたが唐菓子の伝来により現在の様々な和菓子が生まれるきっかけになりました。

━━━鎌倉時代から安土桃山時代
この時代になると禅宗の普及によって今まで朝食、夕食の間に点心と呼ばれる間食が広まりました、すいとんやうどんのような蒸し物だった物が新しいお菓子の羊羹や饅頭に変わっていったとされています、室町時代には茶道が盛んになり餅類の牛皮餅、葛餅、葛やき餅、わらび餅、ちまきなどが茶菓子の名として定着しました。またこの頃、ポルトガルやスペインから来た宣教師によって南蛮菓子と呼ばれるカステラ、金平糖、ボーロカルメ焼きなども普及し始めました。

━━━江戸時代
和菓子職人が京(京都)から江戸に渡り砂糖を使用した甘いお菓子が著しくに発展しました。この当時、京には皇室の御所があり江戸には徳川家康が開いた幕府がありそれぞれの和菓子に特徴があります。まず京菓子は御所や公家、寺社、茶家などの行事や儀式で献上品として用いられました、京菓子は四季を表現するなどとても芸術的です。この事から京菓子は五感(視覚、味覚、嗅覚、聴覚、触覚)で楽しむ物とされています、また工芸菓子とも呼ばれています。江戸菓子は幕府が白砂糖の使用を制限(京都にも制限があった)した為に大名や上級武士のみに白砂糖を使用した上菓子が許されていました。庶民は黒砂糖を使用した駄菓子やおこし、きんつば、大福餅などが作られるようになりました。

━━━明治時代以降
明治時代以降になると西洋のお菓子、ビスケット、キャンディ、チョコレートや調理器具などが輸入されるようになり日本の和菓子にも発展をもたらしました。

━━━現代の和菓子
現在ではケーキやチョコレート、ビスケット、プリンなど様々な洋菓子、生洋菓子が広まっています、その他にもスナック菓子なども広がりを見せていてコンビニやスーパーなどで気軽に買えます、またテレビや雑誌などで行列の出来るスイーツなど洋菓子店を紹介したりと勢いが加速しています和菓子も伝統を守り続け定番の商品も沢山あるなか新しい味も出てきています。生八つ橋は京都の名物で有名ですが今は定番のあんこの他にイチゴやチョコレートもあるようです、羊羹にも今はチョコレート味が出てきていますがやはり人気の味は定番のあんこのようです。その他にも浅草で有名な雷おこしや大福餅、きんつば、ういろう、最中など数多くの和菓子があります。その中でも白餡に求肥やつくね芋などを混ぜて食紅やクチナシで着色し型や職人の手によって成形されていく「練り切り」や「こなし」は色彩豊かに四季を表現しており食べるのがもったいないほどとても芸術的な和菓子になっています。和菓子は洋菓子に比べて脂肪分が少ない他、豆類からの食物繊維も豊富なので以外とヘルシーです。

━━━日本の行事と和菓子
花びら餅
丸く平らにした白餅の上に紅い菱形の餅を重ねて味噌餡と甘く煮たふくさごぼうを置いて半円状に折り畳んだもので押し鮎(新年の縁起物)に見立てており正月にだけ食されます、正式名称は菱葩餅(ひしはなびらもち)

菱餅、雛あられ

3月3日の桃の節句に雛人形とともに飾られます。菱餅は赤(桃色)・白・緑の3色が多く、赤は桃の花、白は純白の雪、緑は新緑を表しています。雛あられの色も菱餅と同くそれぞれの色を表しています。

おはぎ、ぼたもち
もち米にうるち米を混ぜて炊きあんこで包んであります。春と秋のお彼岸に仏前に供えます、牡丹の咲く春がぼたもちで、萩の季節の秋におはぎと呼ぶようですが最近は年中おはぎで販売する店も多いようです。

千歳飴
11月の半ばに祝われる七五三で鶴と亀の化粧袋に入った紅白の2本の細長い飴に子供の長寿と健康を祈ります。

相撲(2012/03/15)

相撲とは、もともと神事です。日本のいろいろな祭りの中で「奉納相撲」として今でも行われています。健康で力自慢の男たちが神の前でその力をぶつけ合って、神様に五穀豊穣などを祈ります。神様に失礼のないように土俵の中での礼儀作法が非常に重要とされています。江戸時代から現代まで続く、職業としての大相撲の中でも礼儀作法は特に重要視され、相撲は武道であるとも言われます。最近では、日本由来の格闘技やスポーツとして国際的にも知られています。皇室とも縁が深く、奈良時代から天皇が観覧することを「天覧相撲」と言っています。将軍が観覧することは「上覧相撲」と言われていました。

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国技
日本には法律などで決まった正式な国技はありません。しかし、相撲は明治42年(1909年)、両国に完成した相撲常設会場の名前が「國技館」と名付けられたので、国技として広く認識されるようになりました。

━━━歌舞伎の歴史
◇古代
『古事記』の中で、出雲の神のタケミナカタが天の神のタケミカヅチの腕を掴んで投げようとすると、タケミカヅチが自分の手を氷の柱、剣へと変えました。そのため掴めないでいると、逆にタケミカヅチがタケミナカタの手をわらのように握り潰してしまいました。この神々の戦いが相撲の起源とされています。

◇弥生時代
『日本書紀』には、垂仁天皇7年(紀元前23年)7月7日に野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)が「相撲」で戦い、お互いに蹴り技を出し合って、最後は宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折って、さらに倒れた蹴速を踏み付けて腰骨を折り、絶命させたと書かれています。これが、人間同士で戦う相撲の一番古いものといわれています。このころの相撲は打撃を主体とする格闘技で、既に勝敗が決まった相手に最後の一撃を加えて命まで奪いました。また、宿禰と蹴速は相撲の神様として祭られています。

◇奈良時代
『続日本紀』には、天平6年(734年)7月7日に聖武天皇が「相撲」を観覧したことが書かれています。またこのころ、それまでは生死をかけた戦いであった相撲を変更し、「突く・殴る・蹴る」の三技を禁手、「なげ」「かけ」「ひねり」「そり」を基本として相撲四十八手の決まり手、礼法の3点を制定しました。

◇平安時代
宮廷では、各地から代表を選んで、相撲大会を行いました。天皇が出席した行事を節会といい、天皇が相撲を観覧しているので、「相撲節会」と言いました。このときに勝った方の立会役が矢を背負って勝者の舞を演じたのが弓取り式の始まりといわれています。平安後期になると相撲節会はだんだん行われなくなって行き、宮廷行事としての相撲大会はなくなってしまいました。
また、民間でも相撲は行われていました。一般の人たちの相撲は「土地相撲」や「草相撲」と呼ばれていました。「神事相撲」は、農作物の豊凶を占ったり、五穀豊穣を祈ったり、神様のご加護に感謝するための農耕儀礼でした。「武家相撲」は、武士たちが戦いで使う組み打ちの練習や心身を鍛えるための武道でした。

※武道とは、人を倒す技術だけでなく、稽古を通じて人格(心)の完成をめざす、という道の面が加わったもののことです。

◇戦国時代
織田信長は相撲を奨励していました。目の前で身分の高い人も低い人も関係なく、相撲をとらせることが大好きでした。そのため毎年相撲大会を行って、最後まで勝ち抜いた勝者には褒美を与えていました。

◇江戸時代
現在も続いている、職業としての大相撲が始まりました。

◇平成
平成24年(2012年)から、中学校の武道必修化の必修科目として、相撲・剣道・柔道の三種類が始まります。

━━━神社での相撲
相撲は神事相撲として昔から行われてきました。お祭りのときに、神様のご加護に感謝したり、五穀豊穣や大漁などを願って、相撲を行う神社は今でも多くあります。そこで行われる相撲には、占いとしての意味もあって、どちらが勝つかによって、五穀豊穣や大漁が決まります。そのため、勝負は1勝1敗になるようにしてあります。また、四股は土の中の邪気を払うという意味の儀礼なので、非常に重要とされています。

━━━大相撲
大相撲とは、現在、日本相撲協会が主催する相撲興行のことです。元々は江戸時代に江戸で江戸相撲、大坂で大坂相撲が行われていました。それが昭和になり大坂相撲協会が解散して、相撲協会がひとつになり、江戸相撲と大坂相撲も統一されて、今の大相撲になりました。

◎土俵
今の大相撲では、1辺6.7mの正方形に土を盛って、真ん中に直径4.55m(15尺)の円が勝負俵で作られていて、その円の東西南北4箇所に、徳俵と呼ばれる俵1つ分の出っ張りが作られています。
昔から、土俵は神のいる神聖な場所とされています。そのため、力士が入場をするときには柏手をうち、横綱が行う土俵入りでは四股を踏んで邪悪なものを鎮めています。また、明治時代までは女性が相撲を観戦することも禁止でした。現在では観戦はできますが、土俵上は女人禁制です。

◎力士
力士とは、もともとは「力」は体や腕の力、「士」は優れた男士の意味で、力の強い男の人のことでした。今では、四股名を持っていて、大相撲に参加する人のことを力士と言います。相撲取りとも呼ばれ、十両以上の力士は関取とも呼ばれます。相撲を取るときはまわしだけを身につけます。髪の毛は、十両以上は大銀杏を結って、幕下以下はちょんまげを結います。また、土俵入りのとき十両以上は美しく高価な化粧廻しを身につけます。

◎技
大相撲の決まり手は、相撲の技82手と非技(勝負結果)5手と反則負けの88手あります。

◎本場所
本場所は現在、1年に6回行われています。東京の両国国技館では、1月、5月、9月の3回行われ、3月は大阪の大阪府立体育館で、7月は名古屋の愛知県体育館で、11月は福岡の福岡国際センターで行われています。また、本場所の名称は通称で呼ばれることが多く、一月場所は初場所、三月場所は春場所、五月場所は夏場所、七月場所は名古屋場所、九月場所は秋場所、十一月場所は九州場所と呼ばれています。1場所は15日間で行われて、日曜日に始まって、翌々週の日曜日まで行われ、1日目を「初日」、8日目を「中日(なかび)」、15日目を「千秋楽」と呼びます。

◎地方巡業
本場所のない偶数月には地方巡業が行われます。地方巡業は全国各地の興行を希望する人たちが日本相撲協会に巡業開催の契約金を支払って、興行権を譲り受けるという形で行われています。この地方巡業は、相撲ファンの拡大や有望な青年の発掘などさまざまな面で大相撲を支えています。

◎番付
大相撲では、クラスが6つに分かれていて、上から順番に、幕内、十両、幕下、三段目、序二段、序の口となります。特に幕内と十両の力士は関取と呼ばれ、一人前と認められ、1場所十五番相撲を取ります。逆に幕下以下は力士養成員と呼ばれ、1場所七番の相撲となるので、2日に一番の取り組みとなります。幕内の中にはさらに番付があり、上から横綱・大関・関脇・小結・前頭となり、それが東西に分かれ、合計42人以内になっています。その中から大関・関脇・小結のことを合わせて、三役と呼んで、前頭のことを平幕と呼びます。

◎取り組み
1場所のうち、最も勝ちの数が多かった力士が優勝です。勝ちの数が同じときは、優勝決定戦を行って優勝者を決めます。取り組みは基本的に成績が同じくらいで地位が近い力士と組まれます。よって幕内の場合、基本的には下位の力士が上位の横綱や大関と対戦することはありません。しかし、下位の力士が多く勝って優勝争いをすると、終盤に上位の力士と対戦することもあります。取り組みは基本的には前日に決定するので、その場所の成績が違いすぎる対戦はあまり起こりません。現在、同じ部屋の力士同士が対戦することはありません。また、部屋が違っても兄弟、叔父甥は対戦しないことになっています。ただ、優勝決定戦でのみ対戦します。

◎懸賞
よく、相撲をする前に土俵のまわりを旗を持った人が回っています。あの旗は懸賞幕といって、スポンサーや商品の名前を書いていて、お客さんに宣伝をしています。その懸賞幕一本につき6万円を支払っています。そして、相撲に勝った力士が懸賞金をもらえます。懸賞金6万円のうち、5千円は相撲協会の事務経費として引かれ、2万5千円は税金対策として相撲協会が預かり(引退したときに戻ってきます)、残りの3万円が勝った力士に渡されます。現在、懸賞金は1本につき6万円で、1場所に5本以上出すことと決められています。そして、同じ取り組みには何本出しても良いことになっていますが、1つの取り組みにつけられるのは合計50本までとなっています。ただし、懸賞がかけられるのは、幕内の取り組みに限られています。勝った力士は、手刀で「心」の字を書いて、行司から懸賞金を受け取ります。

◎座布団の舞
大相撲の取り組みのあと、座布団が舞っていることがあります。それを通称「座布団の舞」と言います。これは、横綱が平幕の力士に負けたときなどに観客が土俵に向けて自分の座布団を投げることです。横綱が負けたことに対するブーイングの意味や平幕が横綱を倒したことへの称賛の意味がこめられています。しかし、この行為はやってはならないことです。座布団は1枚で1kgくらいの重さがあるので、それが当たるとけがをする恐れがあります。また、ビールなどの飲み物に当たって、それがかかったという人もいます。館内放送でも注意されていますが、守る人が少ないので、2008年の九州場所から、升席の座布団が2人用座布団2枚になり、その2枚もひもで結んだ形になりました。これで、座布団が飛ぶこともなくなりました。ただ、この座布団が使われているのは九州場所だけなので、その他の場所では、相変わらず座布団の舞が行われています。


参考文献:
Wikipedia 相撲
Wikipedia 懸賞(相撲)
Wikipedia 座布団の舞

歌舞伎(2012/01/25)

かぶきとは、「傾く(かぶく)」という動詞からできました。「かぶく」とは、勝手な振る舞いをしたり、奇抜な身なりをすることです。そして、当時は世間と比べ、変わった格好や目立つ行動をする人のことを「かぶき者」と呼んでいました。「かぶき」は女の人が歌い舞って芸を披露していたことから「歌舞妓」となりましたが、女の人が踊ることは禁止となって男の人が踊るようになったので、「歌舞伎」と書くようになりました。

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━━━歌舞伎の歴史
慶長8年(1603年)に「出雲の阿国」という女の人が京都で、「かぶき者」の男の格好をして茶屋の女と遊ぶ様子を踊ったので、「かぶき踊り」と呼ばれて大人気になりました。そしてその人気にあやかって、遊女がそれを真似て踊りました。それを「女歌舞伎」と言って、江戸などでも人気となりました。しかし遊女がやっているということで、風俗を乱すと理由付けられて、寛永6年(1629年)に禁令が出され消えていきました。

その後、前髪のある成人前の少年が演じる「若衆歌舞伎」が人気となりますが、この時代は男同士の恋愛が盛んだったため、役者を取りあうトラブルが続出しました。このため、慶安5年(1652年)に禁令が出され消えていきました。ここまでを「歌舞伎踊り」といって、その時代のはやりの歌にあわせて踊りました。

この後に出てきたのが、前髪を切って成人した男性が男性役も女性役も演じる「野郎歌舞伎」です。これが現代でも続いている「歌舞伎」の元となりました。ここからは「歌舞伎劇」といって、舞踊の要素が大きい演劇となりました。

元禄年間(1688年~)になると歌舞伎は江戸と上方(京都・大坂)で特徴が大きく変わっていきます。江戸では、初代市川團十郎の「荒事(あらごと)」と言われる豪快で力強い芸が人気となりました。一方上方では、初代坂田藤十郎の「和事(わごと)」と呼ばれるようになるやわらかく優雅な演技が人気になりました。このとき藤十郎のために歌舞伎の作品を書いていたのが、近松門左衛門です。

この後、近松門左衛門が人形浄瑠璃の作者に復帰すると、人形浄瑠璃に人気が集まり歌舞伎の人気は陰りをみせました。そこで、人形浄瑠璃で人気が出た作品を歌舞伎でも上演するという形をとるようになりました。これを「義太夫狂言(ぎだゆうきょうげん)」といいます。その後、人形浄瑠璃の人気がなくなっていって、再び歌舞伎が人気を取り戻してきました。

明治維新を過ぎると、それまでは敵討ちやお家騒動や心中などの内容が多かったのですが、外国人や上流階級の人が見ても受け入れられるように史実を忠実に再現した作品を上演しようとする「演劇改良運動」が起こりました。明治20年(1878年)には明治天皇の天覧歌舞伎を実現させて、歌舞伎の社会的地位は大きく上がりました。しかし、観客には支持されなかったため、明治20年代後半にはなくなってしまいました。

明治40年代から昭和初期のころ、ヨーロッパの演劇や小説の影響を受けた作品が増えてくると昔からの観客には支持されませんでしたが、学生たちを中心とした新しい観客からは大きく支持されました。これらの作品を「新歌舞伎」と呼びました。このころ、昔からの型の整備や演技されなくなった作品の復活なども行われました。

第二次世界大戦の空襲により大部分の劇場は焼失してしまいました。しかし、焼け残った東京劇場で昭和20年(1945年)9月から再開されましたが、GHQの命令で反民主主義的な作品は上演できなくなり、歌舞伎は消滅しそうになります。ですが、歌舞伎に理解のあったフォビアン・バワーズ氏の進言によって歌舞伎の制限は昭和22年(1947年)に解除され人気を取り戻していきました。最近はこれまでの歌舞伎にはない大胆な演出をした「スーパー歌舞伎」が登場したり、現代劇の演出家が歌舞伎の演出をするなど新しい歌舞伎のかたちができつつあります。

━━━歌舞伎の舞台装置
現在の歌舞伎の舞台は世界にも誇れる仕掛けが施されています。その中でも代表的なのが、「セリ」と呼ばれる舞台の床の一部が上下に動かせる舞台機構のことで、3種類あります。「大ゼリ」は大道具全体を持ち上げ、一階建てに思わせていたものが実は二階建てだったというような使い方をします。「小ゼリ」は登場人物が現れたり消えたりするときに使われます。「スッポン」は花道の付け根付近にあり、作品内で人間離れしていたり、空想の生き物の登場のときに使われます。この「セリ」という呼び方はもともと歌舞伎だけで使われていましたが、今ではどの劇場でも使っています。

二つ目は「廻り舞台」です。これは舞台の真ん中の床が丸く切ってあって、その部分全体が回ります。これは、丸い部分の上に2つの場面のセットを作っていれば、回転させるだけで物語の場面転換ができるというものです。

三つ目は「花道」です。舞台の下手側の客席を通る通路のことです。作品の中では、海や河原や道として使われます。

以上、代表的な3点をご紹介させていただきましたが、その他にもいろいろな仕掛けがあります。

━━━歌舞伎が発祥の言葉
今の日本で使われている言葉の中には、歌舞伎の世界から生まれたものがたくさんあります。そのなかから一部をご紹介させていただきます。

・二枚目(にまいめ)
ハンサムな男子のことです。もともとは歌舞伎小屋の看板が8枚掲げられていて、その中の「二枚目」に顔を白くぬった色男役の役者の名前が書かれていました。そこから、美男子で男前の人のことを「二枚目」と呼ぶようになりました。

・三枚目(さんまいめ)
滑稽な役をする俳優やそういうキャラクターの人のことです。もともとは歌舞伎小屋の看板の「三枚目」に道化役の役者の名前が書かれていました。そこから、おもしろおかしいことをする役の人をそう呼ぶようになりました。ちなみに「一枚目」には主役の名前が書いてありました。

・十八番(おはこ)
もっとも得意な技や芸のことです。歌舞伎では、七代目市川団十郎が市川家代々の得意芸を十八種類を選んで「歌舞伎十八番」としたことから始まりました。

・お家芸(おいえげい)
最も得意とする事柄のことです。歌舞伎では、家に代々伝わる得意芸のこととして使われています。

・裏方(うらかた)
舞台の裏で働く人のことです。歌舞伎の世界で、舞台に出る「役者」、劇作家・音楽演奏者・大道具・小道具・衣装・髪型・照明・音響を担当する「裏方」、営業・会計・見物席の案内など事務関係の「表方」と仕事が分業化されていったときにできた言葉です。

・黒幕(くろまく)
表には出ずに、裏で計画を立てて他の人を操って行動させる人のことで、闇の権力者とも言われます。歌舞伎では、黒い幕のことで、夜の場面の背景幕や場面の転換のときに「黒幕」は使われ、その後ろで舞台を操るので、現在使われているような意味に変化しました。

・大詰め(おおづめ)
物事の最終段階という意味です。歌舞伎では、江戸時代に長い作品は二幕に分けて上演していて、そのうちの一番目狂言(時代物)の最後の幕のことです。二番目狂言(世話物)の最後の幕は「大切り」といって、「大喜利」の語源になっています。

・修羅場(しゅらば)
戦いが激しく行われている場所のことです。現代では、男女の間のトラブルで使われることが多くなっています。歌舞伎でも、激しい戦いの場面や男女の激しいやりとりの場面を「修羅場」と言います。

・幕の内弁当(まくのうちべんとう)
俵形のご飯に卵焼き、焼き魚など数種類のおかずが入った弁当のことです。歌舞伎では、舞台の幕が下がって次の幕が上がるまでの間のことを「幕の内」と言って、その間に食べる弁当のことを言いました。

・千両役者(せんりょうやくしゃ)
風格と実力が備わった人気者の役者や技量が優れていて、すごい活躍で周りを魅了する人のことです。歌舞伎では、一年間に千両もの給金をとることのできる役者のことです。

・見せ場(みせば)
見るだけの価値がある場面のことです。歌舞伎では、役者が得意な芸を見せる場面のことを言います。

・捨てぜりふ(すてぜりふ)
立ち去るとき、相手を軽蔑したりののしったりする言葉のことです。歌舞伎では、台本に書いていないせりふを付け加えることで、短いアドリブのことを言います。

・とちる
うっかりミスをすることです。歌舞伎では、役者が舞台で出番や台詞を間違えることです。

・板に付く(いたにつく)
服装や仕事の態度や物腰がしっくりとしてよく合っているという意味です。歌舞伎では、経験豊富な役者の演技は舞台に調和されているという意味です。

・なあなあ
物事を馴れ合いで行って、安易に済ませることです。歌舞伎では、掛け合いで、一方が「なあ」と呼びかけ、もう一方も「なあ」とうなずいて、表情やしぐさで気持ちを表す定型的な演技のことです。

歌舞伎が日本で誕生して400年あまりですが、その歴史の中でいろいろな作品が生まれては消えていき、今では2005年にユネスコ「無形文化遺産」に登録されたこともあり日本を代表する伝統芸能の一つとなっています。


参考文献:
Web「Wikipedia」「It’s just so so.」「歌舞伎への誘い」「歌舞伎から生まれた言葉」