伝統技術」カテゴリーアーカイブ

漆器(2013/08/28)

━━━その歴史━━━
漆器(しっき)とは、木や紙に漆(うるし)をいく層も塗り重ねて仕上げる工芸品のことです。さまざまな技法があり、蒔絵(まきえ)、沈金(ちんきん)、螺鈿(らでん)、拭き漆(ふきうるし)、彫漆(ちょうしつ)、蒟醤(きんま)等があります。紀元前13世紀、棺桶の塗料に漆が使われている物が中国で発見されています。3600~3000年頃の遺跡から一部が発掘されたので漆器は中国が発祥の地と考えられていました。しかし、平成12年に北海道南茅部町の垣ノ島B遺跡から中国で発掘された漆器より古い、9000年前の縄文時代前期の漆器が発掘されました。漆の木も中国から日本に渡ったと考えられていましたが。DNA分析の結果日本に元から有った固有種だと確認されました。よって日本起源説も主張され、議論が続いています。

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━━━漆について━━━
漆は採取時は乳白色ですが空気に触れると酸化し褐色に変色してしまいます。漆は乾燥すると非常に強い塗膜が出来、酸、アルカリ、塩分、アルコールにも強く、また耐水性、断熱性、防腐性にも優れているそうです。また、年月が経つほど艶も増していきます。しかし、漆は紫外線に弱く長時間直射日光に当てていると表面が荒れてしまい屋外塗装には向いていません。しかも黒漆は変色してしまい茶色くくすんでしまいます。 漆は精製時に鉄粉を加えると、、酸化作用で、黒くなります。それが黒漆です。何も加えないと透明な飴色のままで透漆(すきうるし)となります。また、透漆に朱や緑の顔料を加えると色漆になります。

━━━漆器の技法━━━
蒔絵(まきえ):1500年前からある日本独自の技法です。漆で絵や文様(模様)を描き乾かない内に金箔、金粉、銀粉、螺鈿(らでん: 貝殻の裏面、七色に輝く部分)等を蒔きつけ絵を完成させて行きます。その際、漆は接着剤代わりとなります。漆を乾燥させる為に温度、湿度が調整してある うるし室(風呂)(うるしむろ ふろ)に入れます。乾燥できたら表面をキメの細かい炭や角粉(つのこ: 鹿の角を焼いてつくる粉)で磨き最後に角粉を付け手で磨き上げて完成です。

沈金(ちんきん):沈金刀(ノミの様な物)で文様(模様)を彫りその溝に布で漆を塗り込みます。そして、溝以外の漆を拭き取った後に金箔や金粉を付着させ余分な金を取り除き完成です。

螺鈿(らでん):厚みが約0.2mm程の薄い板状の貝殻を乾いていない漆の表面に貼り付けます。次に貝殻の厚さ位までサビ(生漆に砥紛を混ぜたもの)を重ね塗りし、乾燥できたら研磨して貝殻の表面を出していきます。

もう一つの技法は、貝殻を付けたい部分を彫り、その場所に合わせて貝殻を切り抜きはめ込む技法です。その後上から漆を塗り乾燥させてから研ぎ艶がでるまで磨きます。使用する貝は、夜光貝、白蝶貝、黒蝶貝、青貝、アワビ、アコヤガイなどです。

拭き漆(ふきうるし):木目を奇麗に見せる方法です。木地をサンドペーパーで出来るだけ奇麗にして、汚れを拭き取り刷毛で漆を薄く塗っていきます。その後、余分な漆を拭き取り乾燥させます。乾燥が出来たらまた漆を薄く塗って余分な漆を拭き取り乾燥させます。この作業を4~5回繰り返すと次第に艶が出て奇麗な木目が出来ます。

彫漆(ちょうしつ):表面に漆を何層も塗り重ね漆の層を作りその層を彫り文様を描いていく技法です。彫漆にはいくつかの種類が有り、堆朱(ついしゅ)、堆黄(ついおう)、堆黒(ついこく)、紅花緑葉(こうかりょくよう)などがあります。同色を塗り重ねて濃淡を出す技法と、2色以上を塗り重ねる技法があります。

漆を100回以上も塗り重ねる作品もあり、漆を乾燥させてから次の漆を塗るので、時間が非常にかかります。塗り重ねた層を彫る為立体感ある作品になります。彫漆はとても難易度の高い技法です。

蒟醤(きんま):木地に漆を塗り重ねていき、漆の層を作ります。乾燥させたら漆の表面に文様を彫り、溝に色漆を塗り込んでいきます。再び乾燥させ炭研ぎをして平らにし艶をだします。

風鈴(2013/08/27)

━━━その歴史━━━
日本に仏教などと一緒に風鐸(ふうたく)が渡来してきました。お寺の四隅にかかっている風鐸がそれです。風鐸のガランガランと鳴る音が厄除けとして使われ、その音が聞こえる範囲の住民には災いが起こらないといわれました。平安、鎌倉時代の貴族の間では縁側に下げて、外から疫病神が屋敷の中にはいるのを防いだと書物(六学集)には、書いてあります。法然上人絵巻には銅製の風鈴が描いてあります。形は今現在のものとは少し違います。ガラス製の風鈴が出始めるのが、文献には享保年間(1700頃)とされています。長崎のガラス職人がガラスを見せ物として大阪、京都、江戸にて興行しながら伝わります。その頃の価格は今のお金に換算すると、およそ200万~300万円ぐらいと言われています。昔から、ガラスでできた「江戸風鈴」、南部鉄でできた「南部風鈴」、金属を火箸状にした「火箸風鈴」などが有名です。明治維新後、外国の大量生産技術も取り入れ、明治20年代には風鈴が一世風靡を巻き起こしました。

江戸中期
長崎ビードロ師が江戸でビードロを実演します。
江戸末期
江戸の問屋が長崎で技術習得。安価でガラス風鈴の発売を始め江戸中に拡まります。
昭和初期
篠原儀治氏 父又平氏より江戸風鈴の技術を習得。以後、技を磨き、第一人者となります。

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━━━江戸風鈴の名称の由来━━━
篠原儀治は先代から受け継いだガラス風鈴を、昔の東京(江戸)で、江戸時代から作られていたことから昭和40年頃、「江戸風鈴」と名付けました。それ以後江戸風鈴の名称が拡まっています。

━━━【江戸風鈴】━━━
江戸風鈴には、輸入品と明らかに違う特徴があります。垂直断面が不均一で、下側の開口部も滑らかではありません。均一に仕上げられたものは音が単調ですが。江戸風鈴の音色は多彩でいろいろな表情があります。工業製品としては一見雑な仕上がりですが、ここに江戸風鈴の音色の秘密があります。垂直断面が不均一だと、共鳴周波数が一様でなく、倍音の分布が複雑で、音の伸びも一様ではありません。もちろん下手な細工では濁った音になったり、強度が落ちたりしますが、独特の澄んだ音色と強度を両立させるのは熟練の技術と勘がすべてです。また、未仕上げの開口部の引っかかりが音色に多彩な表情を与えている点も見逃せません。

━━━【南部風鈴】━━━
岩手県を代表する伝統的工芸品であり、岩手県盛岡市と奥州市水沢区でその歴史を刻んできた南部鉄器です。JR東北本線水沢駅ホームに南部風鈴が沢山飾られ、日本のいい音色百選のひとつに選ばれています。

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━━━【火箸の風鈴】━━━
兵庫県、姫路の代表的工芸品にも指定されている明珍火箸は、由緒ある甲冑師(かっちゅうし)の明珍家で作られていました。甲冑師とは、鎧や兜を作る職人のことです。48代目まで甲冑を作っていましたが、明治維新後、武士の時代が終わると火箸作りに専念するようになりました。昭和30年代に入り火箸の需要が落ち込むと51代目の宗之氏が火箸を組み合わせて作った風鈴とドアチャイムを考案しました。甲冑と同じ鍛え方で、火箸1本を千回叩くといいます。こうして精魂こめて鍛えた火箸は、高く澄んだ音を出します。

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ヘラ絞り(2013/08/26)

━━━日本の下町の技術━━━
普段生活で使用したりする日用品、街で見かけたりする装飾品、宇宙事業や医療機器、航空事業にまで用いられるヘラ絞りという技術をご存知でしょうか?

ヘラ絞りとは「ヘラ」と呼ばれる金属の棒を回転させた板状や円筒状の金属板に押し当てて少しずつ形状を変形させて形を作っていく加工方法で、「塑性加工」の一つです。

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━━━塑性加工とは?━━━
金属には弾性と塑性という性質があります。金属に力を加えて加工を行う時、加えている力がまだ小さければその力を取り除いた時に金属は反発して元の形に戻ろうとします、これが弾性です。

そして金属に加える力をだんだんと大きくしていくと弾性だけでは元に戻らなくなり変形したままの状態になります。これが塑性変形です。この塑性変形を利用して金属の形状を成形して製品を作りあげていくのが塑性加工です。ヘラ絞りは回転させた金属を塑性加工していくことからスピニング加工とも言われています。

━━━加工方法━━━
金属板をマンドレルと呼ばれる金型に固定させて、マンドレルを回転させていきます。回転する金属板にヘラや専用ローラーをテコの原理を使い押し当ててマンドレルに被せるように成形していきます。しかし、ヘラやローラーを押し付ける力、移動の速さ、送り込む量がうまくいかないと製品の肉厚が均等でなかったり、シワや亀裂が生じてしまったり破けてしてしまうのです。ヘラ絞り職人は数種類あるヘラやローラーを使い分けて手に伝わる圧力や感触で金属を均一に延ばしていきます。加工する金属も鉄、アルミニウム、ステンレス、銅、真鍮、チタン、モリブデンなどがあり金属の硬さが違ったり歪みがでやすいなどの特性があるのでそれぞれにあった加工を行います。また肉厚も厚くなると熱でなましてから加工を行い、大きい製品の加工には複数の職人が力をあわせてヘラを操作することもあります。最近ではNCを使用した機械化もされてきているようですがまだ条件の設定や細かい加工などには熟練の存在が必要です。

━━━どのような製品があるのか?━━━
ヘラ絞りで作られるには、照明機器、やかん、花瓶などがあります、寺社や橋の欄干に取り付けられている擬宝珠もそのひとつです。大きい物ではパラボラアンテナや遠心分離機、精密医療機器部品やオブジェ等もあります。なかでも驚きなのがロケットのフェアリング(先端)と呼ばれる部分にも使用されています、ロケットの打ち上げの時には先端にはもの凄い衝撃と熱がかかります、それらからロケットを守る為に軽くて非常に固い特殊な金属を使用します、この特殊な金属を均一の厚さで加工するには微調整の難しい機械で加工するのは大変なようです。そこでやはりヘラ絞り職人の熟練の技が必要になります。ヘラ絞り職人の中には100分の数ミリという違いの加工が出来る職人もいるので機械で加工するよりより精密な製品が出来上がります。

ロケットなどの宇宙事業や航空機事業、精密医療事業といえば科学の粋を集めた分野ですがこうした分野でも機械だけの加工では成り立たず、下町の職人の熟練した技術が今でも日本を支えています。

扇子(2013/08/23)

━━━その歴史━━━
「扇」という漢字は、風に動く軽い扉のことを意味しています、そこから転じてうちわのことを言うようになりました。うちわは紀元前の中国で用いられたという記録があります。また古代エジプトの壁画にも、王の脇に巨大な羽根うちわを掲げて侍っている図があります。日本では、うちわの柄が出土した例があります。

このようにうちわは昔から存在しますが、木の薄板を重ねたり、紙を折りたたんで製作する扇は日本で発明されたものです。日本の扇は小さく折り畳めるという利点が高く評価され、中国大陸には北宋の時代に、またその中国を経てヨーロッパにも輸出されました。工芸品や伝統文化は外国から伝わったものが多い中、扇子は日本が発祥地なのです。

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一番最古の扇子は京都の東寺にある仏像の腕の中から木製の扇で出来た、桧扇(ひおうぎ)が発見されました。元慶元年(西暦877年)と記されていたことから平安時代に入り83年後には桧扇があったことがわかりました。それ以前に平城京跡から多数出土した例から奈良時代に作られていたと想像できますが、平安時代には生産されていることが現存する扇子や古書から分かり、発祥は奈良時代から平安時代と考えられています。

現代と違い昔は紙が非常に高価で、文字を書くのに桧板を使用していました。桧板をまとめておきたい、本のように一冊に整理したいという思いから紐で繋ぎ要(かなめ)を打ってあわせたことから今の扇子と違って桧扇が誕生しました。これが京扇子の始まりです。そして、平安時代に流し漉きの確立の結果、和紙は大量生産されるようになり和紙文化が開花し桧扇は紙扇へと変化していきます。その結果、和紙文化の開花は京扇子が発展する最大の材料となったのではないでしょうか。現代の京扇子は、こうして輸出された扇子が外国で進化し、そして日本に逆輸入され、更に京都の地で進化していったものです。

━━━【京扇子】━━━
京扇子は、夏の暑さに対し涼を取る為よりも、貴族の象徴として、儀礼的に用いられます。表面的な美しさだけではなく、風合い・持ち味等、実用品としての様々な「美」を持ちます。多くの種類があり、形状・素材など用途に応じた美のかたちが追求されています。京扇子は、沢山の工程から仕上げられ、職人の手を87回通ると語り継がれてます。大変繊細で神経を使う作業ばかりなので扇子1本が出来るまでの作業は職人技の結集です。日本が誇る京都発祥の伝統工芸なのです。

━━━【江戸扇子】━━━
扇子の産地としてよく知られているのは京都ですが、東京にも伝統技法による扇子が受け継がれています。江戸の扇子の文化は、京扇子が発達した後に、江戸の町人を中心に好まれる扇子となり、図柄もその時代に好まれるものに変化し今に伝わっています。江戸扇子の特徴としては、あざやかな京扇子に比べると江戸扇子は地味ですが、゛粋゛ですっきりしています。(町人が素材や見えないところの細工にこだわることが゛粋゛とされていました。)折幅も広く、骨の数も京都よりやや少なめです。京扇子は25本~60本くらいに対し、江戸扇子の骨の数は15~18本くらいです。扇子を閉じる時、パチッと軽快な音がでるのも特徴です。

もうひとつ、京扇子と江戸扇子の違いは、京扇子は分業制で工程ごとにそれぞれ別の職人が作業しているのに対し、江戸扇子は絵を除けば、地紙の色引きから本付けまでの工程をすべて一人で作業します。そのため大量生産できない希少価値があります。江戸扇子は、そのぶん修行に時間がかかり、職人の数もおのずと少なくなりました。現在は、その技術を受け継いでいる職人は数人しかいません。

こけし(2013/08/21)

━━━作り方━━━
こけしには、伝統に従って作る「伝統こけし」、伝統こけしより後に、お土産用に作られた「新型こけし」、工芸的で自由な発想で作る「創作こけし」があります。その中で、伝統こけしについて紹介します。

こけしの材料は、ミズキやイタヤカエデ、エンジュなど他にも色々あります。水抜きをして約半年から1年自然乾燥させた木を使います。乾燥が終わると、選定をして「木取り」という、作業を行ないます。この作業がもっとも重要で、こけし作りに大きく影響するそうです。轆轤(ろくろ)に付けて削る前に、まず丸太を必要な大きさに切り、更に1/4にして、木材の角を取り八角形にします。そして轆轤に付けて削ります。まず、最初に頭部、頭を作ります。木材を轆轤に取り付け「うま」と言う台を添えて、かんな棒(ノミに似た道具)で削っていきます。

頭部の形が出来たら紙ヤスリをかけその後に木賊(とくさ)と言う草を乾燥させて作った物で磨いていきます。木賊で磨くことにより艶が出て、色のつきも良くなります。因みに、昔は木賊を歯磨きに使っていたそうです。

そして、轆轤を廻しながら筆を使い色を塗っていきます。(轆轤模様)色塗りが終わると轆轤を止めて余分な木を切り頭が完成です。(目や模様など細かい部分は後で入れます。)生産地によっては頭と胴体を別々に作らず1本の木で切らずに作り上げる作り付けと言う製造法もあります。(津軽系、木地山系)

次に、胴体です。木材を轆轤に取り付け、かんな棒で削っていき最後にバンカキ(薄刃)で削ります。次に、紙ヤスリをかけて表面を滑らかにしていき最後に、木賊を使い仕上げます。その後、頭と同じように轆轤を廻しながら筆で轆轤模様を書いていきます。そして、最後に頭と胴体を繋げて完成です。胴体と頭の付け方も生産地によって異なり、頭と胴体を別々に作り両方に穴を開けそこに棒を差し込んで木槌(きづち)で叩いていく、さし込みと言う製造法(蔵王系、山形作並系、遠刈田系、弥治郎系、肘折系)と頭と胴体を別々に作り胴体側に穴を開け、頭側には突起を作ります。そして、胴体の付いている轆轤を廻し頭の突起を胴体の穴に押し当て摩擦を起こし熱を発生させて木を軟らかくし一気にはめ込んでいく、はめ込みと言う製造法があります。(土湯系、鳴子系、南部系)轆轤を使った作業が終わると轆轤から外し、顔(目や鼻など)を書いたり胴体に菊や牡丹模様を入れ仕上げます。

こけしは、江戸末期から東北地方の温泉地で売られていました。冬になると農家の人々は休業になり溜まった疲れを癒すために、温泉に行き疲れを取ると言う習慣があったそうです。そのことを、湯治と言い特に東北地方に多かったそうです。お碗や盆類を作っていた木地師(きじし)が湯治客の土産物としてこけしを作って売っていました。
当時は、駒やけん玉と同じようにこけしも子供の玩具として売られていました。(赤物のこけしは湯治客の心身回復と五穀豊穣として縁起ものでもあったそうです。)当時のこけしは今よりも細く幼児が握り易いように出来ていました。しばらくすると、海外から新しい人形が輸入され大正にはこけしの人気がなくなっていき、職人も減っていきました。しかし、しばらくすると子供のお土産として買うのではなく、自分の趣味で集める人が増え始め、収集家が買うようになりました。

昔はこけしと言う呼び方も統一していませんでした。地方によって呼び方が違い、こげし、こげす、きぼこ、おぼこ、でく、でくのぼう、など他にも沢山の呼び方があり、実際にこけしと呼んでいたのは宮城県の鳴子町(一部)でした。こけしという漢字もさまざまで木牌子・木形子・木芥子・木削子などがあり、統一していませんでした。そこで、1939年昭和14年8月に鳴子温泉で全国こけし大会が開催され、色々な呼び方があった名前を仮名書きの「こけし」に決議によって統一されました。今もまだ習慣として東北地方では、お誕生祝(命名こけし)などがあります。最近では、新型こけし(創作こけし)として、お土産は勿論、新築祝、還暦祝、快気祝、結婚記念、退職記念、など色々な種類があります。

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━━━子消し(こけし)と言う間違った説?━━━
こけしを調べていくとかならず出てくる悲しい説がありました。それは、こけしは昔、飢饉(ききん)で苦しんだ農民が「間引き」した子供を供養するために作られたと言う説です。7歳未満は、あの世とこの世の境いに位置する状態であり、いつでも神様の元へ帰りうる魂と考えられていました。飢饉の時、幼い子を養える状況ではなく一家が共倒れしてしまう前に、7歳未満のまだ神様の元へ帰れるうちに間引きを行ない飢饉を乗り越えた時期がありました。その時に供養する為に子消し(こけし)を作ったと言う説が有ります。

我が子を消し(殺し)神様の元へ返したと言うことで子消しになった、と言う由来です。しかし、昔は殺すことを消すと言う表現はしなかったそうです、最近になって昭和40年頃に出来た表現だそうです。しかも、一度は神様より授かった命に対して「消す」と言う言葉も神様に失礼であり間引きは、神様の所へ返すのでお返しする、「もどす」と言う表現で表していたそうです。それに、こけしと呼んでいた地域も一部なので(子消し)説が、こけしと呼ばない地域では成り立たないと考えられます。

こけしと言う言葉も1939年昭和14年に統一され、昭和40年までは、殺すことを消すと言う表現はありませんでした。よって昭和14年~40年までの約26年間は子消し(殺す)と言う表現は存在しなかったはずです。もし、子消し説を語るのであれば昭和40年以降の話になります。この子消し説は、はっきりと否定できませんが、いくつかのズレが気になりました。

高橋長蔵文書(1862年)の記録には木地人形こふけし(こうけし)と記されており、江戸末期から「こけし」に相当する呼び方がありました。(子授し)子を授かるお祝いの意味で、縁起物としてこけしが扱われた地方もあります。こけしの語源は芥子(けし)人形(木彫りの人形に衣裳を着せた小さい人形)というのが有力で、特に仙台堤土人形の赤けしを木製にしたものという考えといわれています。「赤けし」同様、子貰い、子授けの縁起物として「こけし」が扱われた地方もあります。またこけしの頭に描かれている赤い模様(水引手)は京都の「御所人形」において、特にお祝い人形の為に考え出された描彩様式であり、仙台の堤土人形「赤けし」にもこの水引手は描かれています。(水引手の書かれていないこけしもあります。)こけしは子供の幸せと健康な成長を願うお祝い人形でもあります。

日本の花火(2013/08/18)

━━━その歴史━━━
日本の花火は世界一精巧で美しいと言われています。それは沢山の花火師たちが精魂を込めて、伝えてきた伝統技術があるからです。外国から伝わった花火の火術に、日本人が鮮やかな色を付け丸く開くようにしました。花火の起源はいろいろと伝えられていますが、阿波花火の場合は軍用火術であったと伝えられています。
日本に火薬が伝わったのは1543年、ポルトガル人が漂着した時に持っていた鉄砲の部品であったと伝えられています。その後、火薬は狼煙や火砲に使われますが、1613年に現在のような観賞用の花火を最初に見たのが駿府城の徳川家康だと伝えられています。
また、最近になって徳川家康より24年前(1589年)に伊達正宗が花火を楽しんだという記録もあるそうです。そして世の中で鑑賞用の花火となって、多くの花火職人の手により現在の花火へと変化してきました。

 

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━━━その形━━━
日本の丸く開く花火(割物)の代表的な花火は、菊(きく)と牡丹(ぼたん)に分類できます。菊に使われる星を「菊星(きくぼし)」と言い、牡丹に使われる星を「牡丹星(ぼたんぼし)」と言います。菊はやや遅れて色が出て、牡丹は開いた直後から色が出ます。

■菊は花火の伝統技術を集めた花火で、星が丸く放射状に飛び散り尾を引きながら、菊花を描き出します。花びらの先の色が変わる場合は、変化菊といわれます。

■牡丹は菊と同様に丸く開きますが、尾を引かず、特定の色を出して花を咲かせます。迫力の点では菊には及びませんが、繊細な美しさがあり、菊より光が鮮やかに出ます。

■八重芯(やえしん)丸く開いた花火の中に二重の芯がある三重の花火です。三重芯(みえしん)は芯が三重ある四重の花火で、四重芯(よえしん)は五重になります。世界でもこれだけ精巧な花火はなく、日本の花火師の最高の技術が活かされた花火です。当然のことながら芯が多いほど高い技術を要求されます。日本の花火の最高技能は7号(直径20.5)以上の八重芯物が打ち上げられた時にこそ鑑賞できるといえます。

現代の花火師たちは伝統の技術を受け継ぎつつ、打ち上げ方法の近代化やコンピュータシミュレーションを使った演出など新しい技術を取り入れながら、よりいっそう研究を行っています。

日本花火は海外でも人気が高く、世界の”日本花火”としてこれからも日本人だけでなく、世界中の人々に愛され続けることでしょう。

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━━━その技━━━
花火は、全ての星(火薬の球)が一斉に色を変え、一斉に燃え尽きるのが理想的で花火の印象を引き締めます。 星が途中で色を変えるのは、日本の花火特有の技術で、それぞれ燃えたときに違った色を出す混合剤が幾層かの同心球になっています。花火が開いたときに、星は外側から燃えて飛び散り、火薬の層の変わり目まで燃えると次の色の層に移り色が変わります。中心にある色ほど、花火の外側の色になります。

しかも花火が開いて一斉に色が変わり、揃って消えるためには星の大きさや品質が一定でなければなりません。星の製造方法にはいくつかありますが、手間と時間のかかる掛け星は日本ならではの工夫と仕事といえるでしょう。外国の花火に多く使われる星は、一種の色の火薬のみを機械型で固めて作ります。量産が簡単で品質も安定していますが単色の星しかできません。

━━━その分類━━━
日本の花火はその構造から割物(わりもの)とポカ物、そしてその中間にあたる小割物(こわりもの)の三つに分類されます。それぞれの違いは玉の割れ方と中身の飛ばし方にあります。

割物は玉皮は粉々になり、星を均等に遠くまで飛散させます。ポカ物は玉皮の張り合わせた所から二つに割れ、中身を放出します。小割物はその中間です。

割物(わりもの)
球形の玉の内側に星を並べ、中央に割火薬を収め、玉の外側を丈夫な紙で幾重にも張り固めて作るのが「割物」です。大きく丸く開く花火を生み出します。

小割物(こわりもの)
八方に小さな玉を放出して多数の小花を一斉に開かせるものを小割物と呼びます。割火薬は割物とポカ物の中間です。

ポカ物
球体の玉皮がポカッと二つに割れて、星や細工を放出します。割薬も少なく、花火の拡がりも狭くなりますが、内包するものによって色々な機能の花火ができます。運動会などでドンドンと音を出すものが代表例です。